読まれる努力を放棄したブログは自由の象徴

2021年8月2日月曜日

ブログ運営

勢いで立ち上げたこのブログでは、読まれる努力をするのをやめた。

一応読者は想定しているし、文章は人に伝わるクオリティーを保つよう心がけているが、キーワードを狙って記事を書くことも、SEOを意識することもしない。

最悪誰の目に触れなくても、頭を使って文章を考える作業ができれば、それで満足だ。

共有される必要もないので、邪魔だったシェアボタンは削除してしまった。

期待を捨てればブログは自由

これまで運営してきたブログでは、表面上は自由を装っていたが、心のどこかではいつも収益やアクセス数が気になっていて、息苦しさを感じていた。

Googleのアルゴリズムは、品質の低い記事をアップすると、目ざとく察知して、すぐ検索順位を下げてくる。

書きたい記事を思いついても、検索流入が減るのを恐れて踏みとどまることもあった。


一方、この新ブログでは、収益もPV数も全く期待をしていないので、どんなに馬鹿らしいテーマでも記事が書ける。

とりとめのない「日記ブログ」だろうが、時事ネタだろうが問題ない。

初心者向けのブログ本で避けるよう注意される「時候のあいさつ」だって、好きなだけやっていい。

ルールを決めるのは、書き手である自分。ある意味、これがブログの本来の姿だという気がする。


近ごろは、ブログに広告を貼ってい収益化するのは当然の行為で、最初から読み手のニーズに沿った記事を考えるのが常識になってしまった。

「人の気持ちを想像する」といえば聞こえはいいが、果たして、自分を軸から外した言葉に何の意味があるのだろうか?

発信の前提から他者を排除することで、ようやく自身の手に主導権を取り戻せる。

「読まれる」ことを放棄したブログは、僕にとって自由の象徴である。


……とはいっても、誰かが見てくれたらそれはそれでうれしいです。ここまで読んでくれた人、ありがとう!

自己紹介

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実家暮らしでゆるゆる生きる20代。趣味は読書と英語学習。平穏で持続的、かつちょっぴり知的な生活が理想です。プロフィール画像は、折り紙のクジラ。

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